東松山教会の沿革についてローランド師に聞く

平成18年3月5日 ピエール・ローランド神父のミサ説教より抜粋


カトリック東松山教会 主任司祭 ピエール・ロランド神父
ピエール・ロランド神父

 今日は、東松山教会が50年前にどういう状況で始まったかという事についてお話ししたいと思います。その当時、横浜教区から別れた浦和教区で働いていたのはカナダ人のフランシスコ会の神父達でした。戦争の為に奄美大島から追放されて北関東にそして川越地方にも移動してきました。この川越から50年前に唐子へ神父が来て教会活動が始まったのです。

 戦後、1950年頃に台湾や中国の満州等から引揚げて来た人達が唐子に在った飛行場跡を開拓する為に入植しました。ここは、飛行場跡地なので厚いコンクリートや竹藪を開墾し農業用地にしなければならないという大変困難を伴うものでした。この引揚げ者の中に武宮さんや盛島さん等のカトリック信者がいたのです。その頃、教区長になった内野神父はクリスチャン開拓者を作ろうとしていたがとても困難でした。それでも唐子では、信者の家で家庭集会が始まっていました。

 そして、1953年頃パリ外国宣教会司祭で川越に来たカンドウ神父(有名なカンドウ神父の甥(おい))やコルベジェ神父・私の三人と盛島さん宅で子供を含む20数名が集まりカンドウ神父の話を聞き聖書を読みお祈りをしていたのです。とにかく毎週のように信者が集まってみことばをいただきお祈りをしていました。これは教会の基礎なのです。

 それから教区長の考えに従って川越・川口・所沢・東松山の順に教会建設を考えました。東松山教会の土地は工場跡地を盛島さん達が見つけ工場事務所を改造し教会と聖母幼稚園を建設しました。こうして東松山教会は、1956年に献堂されたのです。

 初代東松山教会の神父はパリ外国宣教会のブルゾン神父で、中国の海南島で宣教活動をしていましたが中国から追放され香港・ベトナムのサイゴンで宣教しましたが肺炎に罹(かか)り生活できなくなって日本に派遣されました。川越地区では東松山教会の司祭として2年居た後、東京の上野教会・秋津教会・マダガスカル島タマタブ市を経てフランスに帰りパリで帰天されました。二代目はパリ外国宣教会のロベンス神父が東京の徳田教会から派遣されました。三代目篠原神父、四代目ラバルト神父、五代目クレバー神父、六代目ウエイン神父、現在七代目エドウイン神父はインドの方です。十年前まではインドの神父が私達の教会に来て下さるとは思ってもいなかったのではないでしょうか。

 神の国は人間が考えていた形ではなくて、いつも新しい姿に変わりつつあります。生活の中・心の中・教会生活の中でもそういう呼びかけをいただいているのです。この教会が建てられたのは50年前ですけれど、それは神様の計画の中で聖霊の導きによって実現し具体的になった事の証だと思います。